ふと、想ったこと

ゴミの山も光り輝くもの

毎月購読している「致知」という雑誌に連載されている「禅語に学ぶ」の今月の記事に、こんな言葉が書かれてあった。

「糞掃堆頭(ふんそうたいとう)、一顆(いいか)の明珠(みょうしゅ)を拾い得たり」

これは、「ゴミだめの中から、一粒の真珠を拾った」という意味の言葉らしいが、筆者である横田南嶺氏は、禅の修行生活に入った時に、修行とは、坐禅をしたり、お経を読んだり、経典を読むことだと思っていたから、その他の日常的な食事の支度や庭の掃除などの雑事はさっさと済まれてしまうのがいいと思っていた時期があったそうだ。

しかしながら、この言葉に出会って、毎日の雑事の中から光るものを見出せばいいのだと気づかせてもらったが、本当は、雑事全てが光り輝く真珠であると気づくことができ、実は全てのことが自分にとっては修行であった、ゴミの山だとばかり思っていたものこそが、実は光り輝く珠に他ならなかったと気づいたという。

これは、私がライフコーチとして、もっともっと腕を挙げたいと思っていた頃、コーチングに関連すること以外のこと、それは日常の中の家事や家族との時間、その他の人間関係も含めてそれは「さっさと片付けて」、コーチングスキルを伸ばすための書物を読む時間、それに関連するワークショップへの参加、そしてそれに関連する人間関係にエネルギーを注ぐことに躍起になっていた時よりも、日常のどんな小さなことも、コーチングスキルを磨くことにつながっていることに気づき、そう意識して生き始めてから、コーチングスキルもだが、人生全体の調子が整い始めたことと、共通しているお話だと、そう思った。

横田氏は、記事の中でこう付け加える:

雑事を早く済ませて修行しようなどという考えは、自分中心なわがままな思いにほかならない。我を忘れて一所懸命に畑を耕すことも、箒(ほうき)を持って掃除することも、洗濯することも、それ自体が光り輝く修行なのだと、長い年月の迷いの末にようやく気がつくことができた。

このことは、絶対に忘れないでおきたいと思う。

私は、光り輝いている人間になりたい。

そのために出来ることは、何か特別なことをするでなく、朝起きてから、寝るまで、そして寝ている時間も、とにかく全ての瞬間で一所懸命に生きることのみだということを、忘れないでおきたい。

そして、これは、自分の中の全ての感情、感覚、それは闇さえも、光であると思えることと、通ずるものがあると、そう思った。

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