アイカライキル記念日

今朝主人が、「Aretha Franklin(アレサ・フランクリン)が他界したよ」と教えてくれて、ちょっと心が沈んだ。

ここ数日、彼女の容態が良くないことはニュースで聞いていたので、何度も彼女のことを想っていた。

今朝は、彼女への祈りが「まだまだ歌声を聞きたい。頑張って。」から、「ありがとう」に変わった感覚を味わった。

この2年くらいは、彼女が2015年にケネディセンター名誉賞を受賞したキャロル・キングのために”a natural woman”を歌った映像を何十回と観ている。

何度観ても、鳥肌が立つくらいにすごいステージだ。

自分の「アイ」を思い出すのに、そのエネルギーが全開に放出されている映像だと、本当にこれほど何度も繰り返し観ている映像はないほど。

そしてたまたま、今朝はこんな記事も読んだ:

https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001462.html

名称未設定

2016年に雑誌「クウネル」の編集長が変わって初めて発刊された時のテーマは「フランス女性の生活の知恵」だった。雑誌類はかなり断捨離したのに、本棚をぐるりと見渡したら、その号がまた手元にあった。

フランス人と日本人を比べてもしょうがないけど、同じ女性として、そして女性としての枠も超えて、「私」とは何か?を考えて、「私」が大切にする生き方を貫き通すことを自分の魂がしたがっているのを感じる朝だった。

アレサ・フランクリンも、女性としても、人種としても、いろんなものを超えて生きてきた人の代表選手のように思う。

8月15日は、終戦記念日。

そして、アレサ・フランクリンが亡くなったのは現地時間の8月16日だから、終戦記念日の次の日のこの8月16日を、何だか「アイカライキル記念日」にしたくなった。

もうこの地球に戦争はいらない。

そして私たちの心の中に、「戦う」意識も必要ない。

ただただ、それぞれの「私」の好き、喜びを見つけて、それを互いに尊重しあって生きればいい。

みんなで、国境も、人種も、性別も、何もかも超えていけばいい。

それを思い出す記念日として、8月16日を覚えておこうと思う。

(あちこちで野生のタカサゴユリが咲く場所で、愛犬リリーを思い出す、8月17日の朝にて。)

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「文章と相思相愛」

私がどうしてこれだけ「書く」ことに情熱を向けるのかというと、それは「言葉」に対してコンプレックスがあるから。

まだ言葉をはっきりと話せない幼少の頃の記憶なのだが、周りの大人たちを観察していると、心で感じていることと、発している言葉に違いがあることに、何となく気づいていた。

心で感じるそのままをコミュニケーションすれば全ては上手くいくのに、そこに言葉が入ることでそこにいる人たちの関係が複雑になっていくのを観察していた。

やがて私も、大人たちを見習って、心で感じるそのままを言葉にするよりも、その場で求められる言葉を探して、コミュニケーションを取るようになった。

時々、心で感じているままを言葉にすると、周りがびっくりするのを体験する度に、そうすることはいけないことなんだと思うようになっていった。

そのような体験を重ねていくうちに、本当のことがコミュニケーションされないジレンマに、全ては「言葉があるせい」だと思うようになっていった。

だから、小学校の時から国語の時間が嫌いで、嫌いで仕方なかった。

国語の授業で、その著者が何を感じてこの文章を書いたかの回答が「1つしかない」と教えられることにも反発心を持っていた。「いろんな捉え方があってもいいんじゃないか」と小学生ながらに思っていたのだ。

それでも、英語はとても好きになり、小学校の時から学びたいと親に頼んで塾に通わせてもらった。英語に関してのことは別の機会にまた書きたいと思うが、今思うと、英語ならもっと心の内を正直に語っても良いのではないかと思っていたのかもしれない。

いつからこんなに言葉に関して情熱を持つようになったのかわからないが、書くこと、伝えることを通して表現することに喜びを感じるようになってから、言葉をこれまで以上に大切にしたいと思うようになった。

そして、どれだけ自分を正直に見つめて、どれだけそのことを言葉で表現できるかに、ものすごい意識が向けられるようになった。

ほぼ日で、この20年間毎日欠かさず「今日のダーリン」を投稿し続ける糸井重里さんの文章にもいつも感心させられ、自分も言葉とあのような関係になれたらと憧れを持っている。

そして、そのほぼ日で連載している「おとなのための小論文」の山田ズーニーさんの文章にもいつも感銘と、そして勇気をよく頂く。

そして、今朝読んだ最新の記事に、またとても勇気を頂いた。

文章と相思相愛

===以下、引用===

あなたが文章を大事にすれば、
文章は必ず応えてくれる。

人の文章を深く正しく読めば、
読むことを大事にする読む力のある人が集まってくる。

書く文章を一回一回大切にすれば、
想いはコツコツ伝わり、
想いに添った人生へ導いてくれる。

ときに言葉が誤解され傷ついても、

読む力・書く力のある人が、
必ず支えてくれる。”

===引用終わり===

続いて…

===引用始まり===

本当のことを言ってる文章に、嘘は勝てない。

1つの正直が、嘘の多勢を「ドミノ倒す」のだ。

黒を白に、次々と、輪が広がるように、
やがて一面まっ白に。

「正直」が強い。

文章を大事にするとは、

正直であること。
そして、一回一回だ。

===引用終わり===

ズーニーさんの言葉1つ1つが、自分の心に直球で入ってくる。

===引用始まり===

文章表現を愛し、文章表現から愛されている。

相思相愛。

表現したいものも、愛も、あふれている。

あなたが素敵だから、、
あなたはあなたにふさわしい素敵な文章をきょうも書く。

===引用終わり===

やっぱり言葉遣いが下手くそだとコンプレックスを持っていても、

自分の中から溢れ出てくる想いを言葉にしていくことを、し続けようと思う。

ズーニーさんの文章に触れて、たくさんの勇気を頂いた。

ズーニーさん、ありがとう。

まだ「憧れ」の段階

実はここ数年、自分を表現する場、方法を探しまくっている。

私のコーチングや研修では、「自分のギフト」を知ってもらうために、「小さいとき、何をしていた時に輝いていたか?」という問いを投げるが、私の場合は、「人前で、しかも人数が多ければ多い場で、歌を歌っている時」だった。

今ではすっかり歌が歌えるほどの声が出なくなってしまったが、小学校の頃から高校くらいまで、人前で歌を歌うことをよくしていた。

自分の全身を使い、歌っている曲に乗せて、自分が感じている全てをその場の人たちに「運ぶ」、「届ける」という感覚が大好きだった。

観客は、多ければ多いほど、気持ちが盛り上がった。その方が、自分のエネルギーがどんどんと広がっていったからだった。歌いながら、いつもの日常とは違う世界に飛んでいく感覚があり、それを感じていることが本当に楽しかった。

こんな私だから、人前で話すこと、研修することは、とても自分に合っていることを知っている。

舞台の上で何かをする、表現するという行為は、私の魂がとても喜ぶのだ。

そして、何年も前に「ブログ」というインターネットという世界に乗せて自分を表現する場を知ったとき、自分が舞台の上で歌っている時と同じような感覚で、自分を表現する場として、一時は書かずにはいられないほどのめり込んだことがあった。

残念ながらその時のブログ記事は残っていない。

でもその当時は、いろんな人から「いつも読んでいます!」と言ってもらえていたことがとても嬉しかった。読者が増えれば、増えるほど、書こうという意欲も増えていった。

その頃は、自分のお仕事に精を出すよりも、ブログを書くことに情熱を持っていたように思う。

そんな私を側で見ていた主人がある時、私の日本語の記事は読めなくても、ブログ上で表現している「私」が、「等身大の私」から、「こう見られたい私」になっていないか?と聞いてくれたことがあった。

フェイスブックも流行りかけていたその頃、ほとんどの人は、そういう場では「見せたい自分」しか投稿しない。ブログも、同じ。「見せたくない自分」は見せなくていい都合の良い場で、「本当の自分で生きていく」ことをサポートしようとしているコーチが、そんな発信の内容でいいのか?と、主人が聞いてくれた。

ズキンときた。

聞かれた時は「そんなことはない!本当の私を表現している!」と反発したが、落ち着いて自分のブログ記事を読んで感じたのは、やっぱり、等身大の私よりも何倍も大きく見せて登場させている自分の姿に気づく。

そう気づいた瞬間から、急にブログの記事を書くことができなくなった。

そして、これまでの記事も、恥ずかしくなって、全て削除してしまった。

私を古くから知っている人は、私がこれまで新しいデザインで、新しいテーマで、何度も、何度もブログを始めては辞めてを繰り返していることを知っている。

そのどれも、これまで数ヶ月か、数年までしか続いていない。

「やるぞ!」と始めたことを、途中でやめる度に、自分が恥ずかしくなっていった。

それでも、やっぱり諦めきれない。

時間が経つを、またすごく書きたくなる。

自分が感じたことを言葉で表現したくなる。

1つの表現方法として、自分が撮影した写真も載せたくなる。

書くだけでなく、声で発信することもしたくなる。

歌うことはもういいけど、自分の声で表現することはずっと続けたい。

私の声に「安心」するとよく言って頂くことがある。実は、自分も自分の声を聞くと落ち着いくということを体験している。なので、どうにかして声でも発信したいと気持ちがある。

悩んでいる人がいたら「この記事を読むとヒントがあるかも」と伝えられるように、how toがしっかりと書かれているような記事も書いて発信したい。

でも、何か、「こうすれば、しあわせになりますよ!」的なブログにもしたくない。

私の日々の暮らしから、ぽろっと溢れてくるものを記事にして発信したい。

等身大の私が、そのままで表現されている世界を作りたい。

ここ数年、その表現方法を探している中で、いろんな人の表現方法を模索した。

「暮らしのおへそ」の編集長の一田憲子さんの発信する「外の音、内の香」のスタイルに憧れ、

「嫌われる勇気」の著者として有名な古賀史健さんのほぼ毎日更新されるnoteでの文書に感心し、引き込まれ、

志摩市在住のイラストレターのシャンティーさんの書く正直な文章、心が和むイラストに憧れ、

写真家の幡野広志さんの写真と文に憧れ、しびれ、

ニット・デザイナーで、ご主人が写真家で、いろんな面でその発信の仕方がカッコイイと思うケイト・ディビスさんに憧れ、

私もこの人たちレベルで発信していきたい!と、いろいろ試行錯誤をしてみるものの、全く「これ!」と思うカタチにならず、書いては、書いては削除して、ブログをデザインしては変更を繰り返し、今でも途方にくれてる感があるが、とにかく今は、このシンプルなカタチで発信することだけを決めてみた。

文体を「である」調にするか、「です・ます」調にするかでも、とても悩み、カテゴリもこれでいいのか、などなど、まだまだ定まらないままで、発信している。

でも、自分の中の芯の部分、「アイ」の感覚からずれてないものであるか?だけには、慎重になって書いている。

とにかくしばらくは、これで続けてみようと思う。

どうしても、どんなカタチでも表現したいと思っている自分を、とにかくデビューさせてあげることにした。

「またか…」があるかもしれないが、今はとにかく始めてみる。

この「憧れ」の段階から始めてみた先に、何をみることになるのかを、どうしても体験してみたい。

これは先日書いた「返していく生き方」をしていく中で、ものすごく大切なことの1つだと思っている。

こうして発信すること、表現することは、自分の魂のためでもあるが、「返すこと」にも繋がっている。

返していく生き方

2009年に、「降りていく生き方」という映画が公開された。

実は、今だに観る機会がないままでいる映画だけど、「降りていく生き方」というタイトルに何故だか自分の魂がとても反応したことが、ずっと心に残っている。

そして私の心の奥底から、「返していく生き方」という言葉が湧き上がってきたのは、すぐその後だった。

この映画とは全く関係のない内容だと思うが、この時期から、命を与えられたことだけでもう充分、これからはただただ感謝の気持ちだけを返していく生き方をしていこうと、心のどこかで決めた…いやいや、その時は、そのように生きていけたらいいな、という程度の自分がいた。

それから9年ほどが経った今、数ヶ月後に50歳を迎える日を前にして、「返していく生き方」こそが、これからの生き方だという気持ちが一段と強くなっている。

もう私は充分に与えてもらった。

この上ないくらいにたくさんのことを与えてもらった。

もうこれ以上何か特別に与えてほしいものはない。

これは、欲が消えたからではない。

これはきっと、私の中に「全て」のものがあるとわかったからこそ思えていることなのだろう。

こう思えるようになったことも、何も特別なことではない。

私が「私」に戻って、そしてその「私」から生きていこうと、やっと原点となる場所へと戻ってきたにすぎないということ。

だからこその「アイニカエル、アイカライキル。」

「私」という愛に還り、「私」という愛から生きる。

ここを、まずは私の集大成の場として定めます。

私の「返していく生き方」のやっとの始まりです。

selective focus photography of pink flower
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